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2023年に見返す『花咲くいろは』

緒花は「空気が読めない」?

花咲くいろは』の主人公・松前緒花は他のキャラクターからよく「空気が読めない」と評されます。

わたしも放送当時にぼんやり見ていたときにはそんな感じに思っていました。

たしかに、第一話でも厨房で民子が徹から叱られているのをみて、状況や関係を把握してもいないのに「そこまで言わなくても」と余計な助け舟を出してしまい、逆に民子から反感を買ってしまいます。

第三話では、緒花じしんが「わたしの空気の読めなさは母譲りかもしれない」と述懐しているくらいです*1

劇場版では、妹の遠足に付き添えないかもしれないと気に病んでる菜子に、緒花が母に受けた経験を踏まえて、無意識のうちに追い打ちをかけてしまいます。

しかしいま見返してみると、彼女の空気の読めなさがそこまで何度も指摘されるほどの致命的な欠点だとは思えません*2

あれらくらいなら、他のキャラクターだって大なり小なり似たような行動はとっています。

具体的な検討

第二話では徹から面と向かって「空気読めなさそう」と言われてしまいますが、その前には仕事を教えてくれなかった菜子を、さりげなく庇って自分だけが怒られるように仕向けています。

第三話で次郎丸に拉致られて猿轡までかまされるという酷い扱いを受けるのですが、猿轡が緩んだ際に「私は大声をあげません」とまで言います。

その後、緒花を探しにきた菜子が次郎丸によって不当に詰られている様子に堪えかね、ようやく緒花は次郎丸との約束を反故にして大声で怒るのです。

第四話、転校初日の高校でクラスメイトから囲まれた際にも、旅館で徹から叱られている際にも、緒花は自力ではその状況から抜け出せず、前者は結名、後者は民子が来るまでその状況から抜け出すことができません。*3

極めつけは第十一話「夜に吼える」での、母親がらみの幼少期のエピソードでしょう。

緒花は母・皐月がいくら約束を破ろうと、それが仕事であれば我慢していました。

そんな仕事の内容が……というのがこのエピソードです。

その他にも第十八話では、プールで抱き合う縁と貴子を邪魔しないように、隣にいた菜子にこれ以上は見ていたらダメなので去るように促したり。

第二十四話では、閉館を阻止しようと、キャパシティを超えた予約客を捌くことで必死な喜翆荘の面々が、ぼんぼり祭りに人手を出せないことを他の旅館の方々から責められます。

そのときにも緒花はその場を収めるために、貧乏くじを引くように自らぼんぼり祭りの手伝いを買って出るのです *4

細かいところまでは記載しませんが、注意して見ていると松前緒花というキャラはかなり「空気を読んで」行動していると気づけると思います。

少なくとも、いつどんなときでも我を通そうとしたり、常時天然ボケのキャラではありません。

否定しきれない緒花

にもかかわらず、緒花はたびたび空気が読めない人として扱われ、彼女じしんもそれを気にしつつも否定することができないでいます。

単純に脚本の不備かもしれませんし、逆に脚本の技術の可能性もあります (「空気が読めない」キャラとして扱うことで、突飛な行動をとりやすくする) 。

ただ、そんな結論はつまらないのでもう少し先を考えてみましょう。

先述したように、緒花は自分が空気を読めないのだとしたら、それは母親譲りかもしれない、と考えています。

さらに、「空気が読めない」と同様に「友だちが少なそう」*5も緒花を評して何度か言われる言葉ですが、これは第一話の冒頭での母・皐月の「わたし、女友だちいないし」を思い出させます。

しかし「空気が読めない」と同様、少なくとも視聴者に見える限りはですが、緒花は無難に学校生活を送っているようにみえます。

なんなら、民子と菜子のほうが友だちが少なそうですらある*6

緒花が自分じしんを捉えようとするとき、そこには皐月の存在が欠かせません。

母親がだらしないので自分は現実的になったと思っていますし、だから他人に期待しないようにしていたわけです*7

そうしたこともあって、「空気が読めなそう」「友だちが少なそう」と言われたときに、真っ先に思いつくのが母・皐月の存在なのではないか。

そしてその評価を否定しきれないのは、自分がその皐月の娘だから、という自覚からではないか。

と書くと、親子間の抑圧や、血縁関係にまつわる負のイメージがわいてきますが、要所で反発することはあれど、緒花は母親をそこまで嫌っているわけではありません。

第十一話「夜に吼える」には、劇中でいちばん緒花が動揺する話 (半分は皐月のせい) ですが、その回ですら、雨のなか疾走する緒花が誰に助けを求めるかというと、それは母に向けてなのです。

そんな緒花だからこそ

劇場版である「HOME SWEET HOME」で、緒花は豆じいの業務日誌の断片的な記述から、かつての母と現在の自分の「共通点」を見つけます。

「空気が読めない」でも「友だちが少ない」でもない、「『輝きたい』『何かを見つけたい』と思っていた気持ち」です。

それを知った緒花は自分でも不思議なくらいにドキドキします。

自分の輪郭をとらえようとするとき、母親の影響を無視できない緒花だからこそ、この高揚がある──というのは、作品を結末から逆算して読み解きすぎでしょうか。

そのほか書いておきたいこと

  • 「HOME SWEET HOME」で、いなくなってしまった菜子の妹の行く先を緒花が探し当てられたのは、彼女がむかし母から受けた仕打ちを覚えていたからです。

    • だからといって、幼いころの緒花が受けたショックがたちまちチャラになってしまうわけではありませんが、それでも一視聴者からすれば僅かばかりの慰めのように映ります。
    • 嫌なできごとが嫌な思い出として残っていることで救われてしまう現在も、きっと世の中にはあるのでしょう。
  • 最終話、ぼんぼり祭りの会場に掛けられた緒花ののぞみ札には、「四十万スイになりたい」と書かれていました。

    • 劇場版を見ればわかるとおり、その願いは皐月と同じではありません。
    • 後悔している様子ですから、「母さんみたいになりたくない」は100%本心でなかったのでしょうが、高校生当時の皐月には認められなかった類の願いです。
    • しかしおそらくこの緒花の願いによって、皐月もスイも少しだけ救われたはずです。
  • こののぞみ札のくだりの直前、皐月はスイにりんご飴を買ってと頼んですげなく断られ、「ケチ、緒花ゆずり」と返します。

    • この転倒した軽口は当然、のぞみ札の内容への前フリなのですが、飴といえば第一話です。
    • 電車に乗って湯乃鷺に向かう緒花は乗り合わせた老人から飴をもらい、「自分の祖母もこうだったらいいな」と考えま(実際はその後すぐに雑巾とバケツを投げてよこされたわけですが)。
    • そんな仕打ちをしたスイが最終話で湯乃鷺から去る電車に乗る緒花に渡すのは、豆じいがつけていた業務日誌です。飴や雑巾のような一方的に与えられるものではなく、緒花が望んだこそ渡される贈り物であるが重要なポイントなのでしょう。

*1:緒花は人から「空気が読めない」と言われるたび、かなり気にしています。

*2:これが「浅慮」とか「お節介」だったらまだするっと理解できるのですが

*3:この回には「非常階段で告白されてる民子に声をかけようとする」という、ベタな空気読めないシチュエーションが存在しますが、演出によって緒花からは男子の存在がギリギリ見えていなかった、くらいのタイミングに調節されています。

*4:ここでの彼女は、①喜翆荘の閉館は嫌だと思いながらも、同時に②喜翆荘のやり方に違和感を覚えており、さらには③女将であるスイの思いを知らされた、という板挟み的状況にあります。

*5:第四話で、まだ親しくなかった菜子は「緒花はすぐに友だちができそう」と言ってくれるのですが、気心知れたあとの第十八話では「良い意味で友だちが少なそう」に変わっています。

*6:最終話で再び転校する日、緒花がクラスメイトからあたたかい言葉をかけられる様は、誰に見送られることもなく東京を旅立った第一話を踏まえているのでしょうが、劇中では緒花がクラスメイトと揉めて和解する、といったエピソードはありません。揉めるのは民子です。

*7:かといって自己評価が高いわけでもないのが緒花というキャラクターの魅力なのでしょう。第十話「微熱」などを参照のこと。

岡田麿里『アリスとテレスのまぼろし工場』

冒頭からネタバレしています

前書き

どうもこの作品を語ろうとすると、ねじくれたところにぶつかってしまって、取り止めがなくなってしまいます。

なんせパンフによると「岡田麿里200%の作品で」と依頼されたらしいので、そんな作品と組み合うのは大変なわけです。

胡乱な感想になっても仕方ない。諦めの気持ちです。

もう一度書きますがネタバレしています。用語などの説明はしていませんので、観た人用です。

物語の型

は見えるんですよ。

あー、「未来から自分の子どもがやってくる」タイプだなとか、「フィクションのキャラクターに自意識がある」話だなとか。

それをシェフ・岡田麿里が調理するとこうなるんだ……という困惑と凄みを感じた、のが最初の印象。

そのままぽかんと口開けていても仕方ないので、ゆるゆる思考の跡を残していきます。

トンネル

での肝試しの場面で、園部という女生徒は「好きな気持ち、見世物になった」といって消えてしまいます。

これは単純に尺を埋めるためのエピソードとして挿入されたわけではなくて、「この作品は映画という虚構の中で虚構の問題をを扱いますよ」という合図なんじゃないか。

たしかに、まぼろしの見伏の街とそこに生きる人々はなんだかフィクションの存在っぽいです。

ループではないにしてもおんなじ季節がずーっと続いているし、老けるわけでもない。

さらにいえば、現実の五実=沙希が盆祭で失踪する直前に欲しがっていたものが女児アニメのハッカパイプだったのを考慮すると、五実が迷いこんだまぼろしの見伏は、もしかしたらある種アニメーションの世界と解釈できるかもしれません。

それはさすがに深読みのし過ぎだとして、仮にそうだったら話は簡単だったんですよ。

たとえば、五実はアニメの世界に入ってアニメの登場人物に恋をしてしまう、それを現実へと送り返そう、という。

シンプルで教訓めいた話にまとまりそうですね。

たしかに幼い子の初恋がアニメやマンガのキャラであることは珍しくもないですし。

うんうん、ほんとにこうだったらよかったな〜〜。

しかし、

鑑賞した全員がわかってるように、五実が迷いこんだのはアニメの世界ではありません。

製鉄所の爆発事故をきっかけに止まってしまった、睦実たちの主観では現実の世界、五実にとっては産まれる前の過去の世界 (に似たもの) です。

そこで恋をする相手は自分の父親で、恋敵は自分の母親という話になる。

なんだかいかにも岡田麿里的だなぁと言いたくなる (堪えようとしたけど無理だった)。

これだけでも十分ややこしいのですが、再三睦実によって言われるように、まぼろしの見伏の人々は、もはや現実の見伏の人々とイコールでは結ばれません。

五実自身も過去の記憶どうやら忘れてしまっていて、映画冒頭では言葉すら忘れてしまっています。

それなのに、本能的に絆のようなものを感じているのか、五実はとりわけ睦実と正宗になつきます。

五実の世話を焼く睦実の仕草はあきらかに母親のそれのように見えます。

正宗と付き合ってすらいない中学生の睦実は、正宗への恋心と、(この世界の自分が産んだわけではないのに) 五実にたいする母的愛情とのあいだで板挟みになるわけです。

あー、ややこしい。*1

しかも、さらに、

岡田麿里はこの捻れた親子関係 (?) の決着をつけながら、もう一個ツイスト (ツイストなのか?) を加えてくるんですよね*2

クライマックスでひび割れの向こうに見える現実の景色、妙に平面的というか映像的なんですよね。

まるで現実の世界が、画面の向こうの作りもののように映る。*3

ここでは、五実を現実に送り返すことで、沙希の失踪から立ち直れていないままの現実世界の正宗・睦実夫婦の「時間」を動かそうとしているわけです。

未来なんてないまぼろしの世界に生きるだけのはずの存在が、理屈はともかく能動的・感情的・衝動的*4に行動して現実を救う。

そのためには、現実とフィクションの主客というべきか主従というべきか、そのあたりを転倒させる必要があった、のかな……正直いってよくわかっていません。

このあたりを岡田麿里流のずらしのテクニックや作家性ととるか、たんなる野放図やご都合主義ととるかは鑑賞者それぞれ次第でしょう。

さて、

五実を無事に現実へと送り返せたとして、まぼろしの見伏がいつ消えてしまうかもわからない、まぼろしの存在であることは変わりません。*5

しかし、岡田麿里は強欲です。

そのうえで、さらにまぼろしの世界をも救おうとする。

記念列車で睦実は、五実にたいして「新しい友だちも未来もあなたのものだけど、正宗の心だけは私のものだ」みたいなことを豪速球ストレートで言い放ちます。*6

睦実は母として、さらには恋敵としても、五実にたいして決着をつけるわけです。現実の睦実が買ってあげられなかったハッカパイプを渡しながら。

五実から花嫁のベールを受け取るという倒錯的にも思える行為のあと、記念列車から飛び降りた睦実は正宗に向かって「正宗がいるから自分がいま生きてるとわかる」といいます。

「未来や目的ではなく今この瞬間こそ」という、アリストテレスエネルゲイア的考え方が背後にあるのでしょう。

(正宗の父である昭宗が読んでいたマンガの技に「哲学奥義・エネルゲイア」というワードが出てきていました)

その理屈によって、まぼろしの見伏の人たちの「生」を肯定しようとする。

正直かなりの力技だと思います。あんまりうまくいってないような気もします。

ただ、熱のある思いは伝わってくる。

エピローグ、

大人になった沙希は、まぼろしの見伏で起こったできごとを忘れていません。

現実の製鉄所を訪れて、まぼろしの見伏の製鉄所で起こったことを彼女は「失恋」と表現します。

彼女が感じた痛みはけっして「まぼろし」ではなかったということでしょう、もしかしたら他人にとっては「狼少女のウソ」にしか聞こえないのかもしれませんが。

現実からまぼろしへ、まぼろしから現実へと渡った彼女にとって、どちらが主でどちらが従なのかは、おそらく問題ではないのです。

あくまで彼女の内の話ですが、それでも境界は無効化されている。

岡田麿里としては、ここまでやってようやく「現実」「フィクション」の両方を等しく言祝げると考えたのではないでしょうか。

他に言いたいこと箇条書き

  • 「親の情事を目撃」*7で世界の崩壊を加速させるの、さすがにどうかと思う……
  • 『荒ぶる季節の乙女どもよ。』でもやってたけどトンネルを性的なメタファーに使うの好きですね……
  • 五実ってすぐ保護された感じなのに野生児っぽくアクロバティックな動きするけどなんでなの? ていうか感覚があるんなら裸足であんな動いて痛くないのか? あれだけ動かすと逆にアニメ存在っぽくない?
  • 屋上に立ってる睦実の影が向かいの校舎に映ってるあたりのカット好き。(9/18) 追記 正宗が上方にいる睦実を見つめている構図はクライマックスの記念列車でも反復されていて、その際には睦実は飛び降りて正宗の元にやってくる。落下という運動によって睦実は映画冒頭で纏っていた得体の知れなさや蠱惑的な装いを脱ぎ捨てる。この飛び降りには、小説版ではさらに別のイメージも付加されているのだが、それに関する描写は映画では全カットされていたはず。
  • アクションにあんまり興味ないんだろうか。
  • もうちょっと画面で説明してほしい。煙とか雪とか工場の金属とか、魅力的なのに雰囲気づくりで止まってしまってる感じがもったいないと思う。

*1:ほんと、この母娘関係へのこだわりがなければもっとすっきりとした作品になったんじゃないだろうか。もしくは逆に母娘ものの地味〜な作品をやるか。個人的にはそっちのが合ってると思う。

*2:このあたり、並行して佐上や正宗の叔父である時宗が動いてたのも、見てて混乱する原因なんですよね。特に時宗周りはぜひとも描きたかったんただろうなぁとは感じるのですが、捌かなきゃいけない情報が多すぎて、鑑賞者としてはいま何に集中すべきかわかりづらい。時宗と佐上の役割を、1人のキャラにまとめるわけにはいかなかったのかな、いかないんだろうなぁ岡田麿里的には。

*3:この映画の大きな特徴だと思うんですけど、異世界と現実で美術的な意味で画面にあんまり差が感じられないんですよね。そりゃまぼろしの見伏も元は現実だから当然なのですが、こういう話やるなら普通はそこにもっと大きく違いを設定すると思うんですよ。おそらくそのへんは現実も作りものも等しく大切だよ、まるごと肯定するよという、この作品の根底にある価値観に繋がってるのかな。でも直感的な理解を阻んじゃってませんかね…

*4:岡田麿里作品にたいする評価として「ロジックのなさ」が挙げられる場合が多いですが、今回はその点にかなり自覚的だったのではないでしょうか、というのが自分の評価です。まぼろしの見伏の人々に必要なのは、まさにそうした情動だったでしょうし。

*5:そもそもこの世界の成立に五実が必要なのか、人にひび割れが発生するのはどういう条件なのか、といったルールはすべて説明がつかない宙吊り状態のまま映画は終わってしまいます

*6:実際はもっといいセリフです。ここはかなり考えたんじゃないかなぁ。母としての役割に殉じさせるわけにもいかないし、まぼろし世界の睦実としての人格も尊重しなくてはいけないのだし。

*7:もちろん五実は2人を実の親だと思っているわけではありませんが、そのあとの五実の発言は、記念列車上で睦実が言ったような「正宗は私のものだよ」宣言ではなく「仲間はずれ」だったはずです。