果物はバナナのように飛ぶ

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岡田麿里『アリスとテレスのまぼろし工場』

冒頭からネタバレしています

前書き

どうもこの作品を語ろうとすると、ねじくれたところにぶつかってしまって、取り止めがなくなってしまいます。

なんせパンフによると「岡田麿里200%の作品で」と依頼されたらしいので、そんな作品と組み合うのは大変なわけです。

胡乱な感想になっても仕方ない。諦めの気持ちです。

もう一度書きますがネタバレしています。用語などの説明はしていませんので、観た人用です。

物語の型

は見えるんですよ。

あー、「未来から自分の子どもがやってくる」タイプだなとか、「フィクションのキャラクターに自意識がある」話だなとか。

それをシェフ・岡田麿里が調理するとこうなるんだ……という困惑と凄みを感じた、のが最初の印象。

そのままぽかんと口開けていても仕方ないので、ゆるゆる思考の跡を残していきます。

トンネル

での肝試しの場面で、園部という女生徒は「好きな気持ち、見世物になった」といって消えてしまいます。

これは単純に尺を埋めるためのエピソードとして挿入されたわけではなくて、「この作品は映画という虚構の中で虚構の問題をを扱いますよ」という合図なんじゃないか。

たしかに、まぼろしの見伏の街とそこに生きる人々はなんだかフィクションの存在っぽいです。

ループではないにしてもおんなじ季節がずーっと続いているし、老けるわけでもない。

さらにいえば、現実の五実=沙希が盆祭で失踪する直前に欲しがっていたものが女児アニメのハッカパイプだったのを考慮すると、五実が迷いこんだまぼろしの見伏は、もしかしたらある種アニメーションの世界と解釈できるかもしれません。

それはさすがに深読みのし過ぎだとして、仮にそうだったら話は簡単だったんですよ。

たとえば、五実はアニメの世界に入ってアニメの登場人物に恋をしてしまう、それを現実へと送り返そう、という。

シンプルで教訓めいた話にまとまりそうですね。

たしかに幼い子の初恋がアニメやマンガのキャラであることは珍しくもないですし。

うんうん、ほんとにこうだったらよかったな〜〜。

しかし、

鑑賞した全員がわかってるように、五実が迷いこんだのはアニメの世界ではありません。

製鉄所の爆発事故をきっかけに止まってしまった、睦実たちの主観では現実の世界、五実にとっては産まれる前の過去の世界 (に似たもの) です。

そこで恋をする相手は自分の父親で、恋敵は自分の母親という話になる。

なんだかいかにも岡田麿里的だなぁと言いたくなる (堪えようとしたけど無理だった)。

これだけでも十分ややこしいのですが、再三睦実によって言われるように、まぼろしの見伏の人々は、もはや現実の見伏の人々とイコールでは結ばれません。

五実自身も過去の記憶どうやら忘れてしまっていて、映画冒頭では言葉すら忘れてしまっています。

それなのに、本能的に絆のようなものを感じているのか、五実はとりわけ睦実と正宗になつきます。

五実の世話を焼く睦実の仕草はあきらかに母親のそれのように見えます。

正宗と付き合ってすらいない中学生の睦実は、正宗への恋心と、(この世界の自分が産んだわけではないのに) 五実にたいする母的愛情とのあいだで板挟みになるわけです。

あー、ややこしい。*1

しかも、さらに、

岡田麿里はこの捻れた親子関係 (?) の決着をつけながら、もう一個ツイスト (ツイストなのか?) を加えてくるんですよね*2

クライマックスでひび割れの向こうに見える現実の景色、妙に平面的というか映像的なんですよね。

まるで現実の世界が、画面の向こうの作りもののように映る。*3

ここでは、五実を現実に送り返すことで、沙希の失踪から立ち直れていないままの現実世界の正宗・睦実夫婦の「時間」を動かそうとしているわけです。

未来なんてないまぼろしの世界に生きるだけのはずの存在が、理屈はともかく能動的・感情的・衝動的*4に行動して現実を救う。

そのためには、現実とフィクションの主客というべきか主従というべきか、そのあたりを転倒させる必要があった、のかな……正直いってよくわかっていません。

このあたりを岡田麿里流のずらしのテクニックや作家性ととるか、たんなる野放図やご都合主義ととるかは鑑賞者それぞれ次第でしょう。

さて、

五実を無事に現実へと送り返せたとして、まぼろしの見伏がいつ消えてしまうかもわからない、まぼろしの存在であることは変わりません。*5

しかし、岡田麿里は強欲です。

そのうえで、さらにまぼろしの世界をも救おうとする。

記念列車で睦実は、五実にたいして「新しい友だちも未来もあなたのものだけど、正宗の心だけは私のものだ」みたいなことを豪速球ストレートで言い放ちます。*6

睦実は母として、さらには恋敵としても、五実にたいして決着をつけるわけです。現実の睦実が買ってあげられなかったハッカパイプを渡しながら。

五実から花嫁のベールを受け取るという倒錯的にも思える行為のあと、記念列車から飛び降りた睦実は正宗に向かって「正宗がいるから自分がいま生きてるとわかる」といいます。

「未来や目的ではなく今この瞬間こそ」という、アリストテレスエネルゲイア的考え方が背後にあるのでしょう。

(正宗の父である昭宗が読んでいたマンガの技に「哲学奥義・エネルゲイア」というワードが出てきていました)

その理屈によって、まぼろしの見伏の人たちの「生」を肯定しようとする。

正直かなりの力技だと思います。あんまりうまくいってないような気もします。

ただ、熱のある思いは伝わってくる。

エピローグ、

大人になった沙希は、まぼろしの見伏で起こったできごとを忘れていません。

現実の製鉄所を訪れて、まぼろしの見伏の製鉄所で起こったことを彼女は「失恋」と表現します。

彼女が感じた痛みはけっして「まぼろし」ではなかったということでしょう、もしかしたら他人にとっては「狼少女のウソ」にしか聞こえないのかもしれませんが。

現実からまぼろしへ、まぼろしから現実へと渡った彼女にとって、どちらが主でどちらが従なのかは、おそらく問題ではないのです。

あくまで彼女の内の話ですが、それでも境界は無効化されている。

岡田麿里としては、ここまでやってようやく「現実」「フィクション」の両方を等しく言祝げると考えたのではないでしょうか。

他に言いたいこと箇条書き

  • 「親の情事を目撃」*7で世界の崩壊を加速させるの、さすがにどうかと思う……
  • 『荒ぶる季節の乙女どもよ。』でもやってたけどトンネルを性的なメタファーに使うの好きですね……
  • 五実ってすぐ保護された感じなのに野生児っぽくアクロバティックな動きするけどなんでなの? ていうか感覚があるんなら裸足であんな動いて痛くないのか? あれだけ動かすと逆にアニメ存在っぽくない?
  • 屋上に立ってる睦実の影が向かいの校舎に映ってるあたりのカット好き。(9/18) 追記 正宗が上方にいる睦実を見つめている構図はクライマックスの記念列車でも反復されていて、その際には睦実は飛び降りて正宗の元にやってくる。落下という運動によって睦実は映画冒頭で纏っていた得体の知れなさや蠱惑的な装いを脱ぎ捨てる。この飛び降りには、小説版ではさらに別のイメージも付加されているのだが、それに関する描写は映画では全カットされていたはず。
  • アクションにあんまり興味ないんだろうか。
  • もうちょっと画面で説明してほしい。煙とか雪とか工場の金属とか、魅力的なのに雰囲気づくりで止まってしまってる感じがもったいないと思う。

*1:ほんと、この母娘関係へのこだわりがなければもっとすっきりとした作品になったんじゃないだろうか。もしくは逆に母娘ものの地味〜な作品をやるか。個人的にはそっちのが合ってると思う。

*2:このあたり、並行して佐上や正宗の叔父である時宗が動いてたのも、見てて混乱する原因なんですよね。特に時宗周りはぜひとも描きたかったんただろうなぁとは感じるのですが、捌かなきゃいけない情報が多すぎて、鑑賞者としてはいま何に集中すべきかわかりづらい。時宗と佐上の役割を、1人のキャラにまとめるわけにはいかなかったのかな、いかないんだろうなぁ岡田麿里的には。

*3:この映画の大きな特徴だと思うんですけど、異世界と現実で美術的な意味で画面にあんまり差が感じられないんですよね。そりゃまぼろしの見伏も元は現実だから当然なのですが、こういう話やるなら普通はそこにもっと大きく違いを設定すると思うんですよ。おそらくそのへんは現実も作りものも等しく大切だよ、まるごと肯定するよという、この作品の根底にある価値観に繋がってるのかな。でも直感的な理解を阻んじゃってませんかね…

*4:岡田麿里作品にたいする評価として「ロジックのなさ」が挙げられる場合が多いですが、今回はその点にかなり自覚的だったのではないでしょうか、というのが自分の評価です。まぼろしの見伏の人々に必要なのは、まさにそうした情動だったでしょうし。

*5:そもそもこの世界の成立に五実が必要なのか、人にひび割れが発生するのはどういう条件なのか、といったルールはすべて説明がつかない宙吊り状態のまま映画は終わってしまいます

*6:実際はもっといいセリフです。ここはかなり考えたんじゃないかなぁ。母としての役割に殉じさせるわけにもいかないし、まぼろし世界の睦実としての人格も尊重しなくてはいけないのだし。

*7:もちろん五実は2人を実の親だと思っているわけではありませんが、そのあとの五実の発言は、記念列車上で睦実が言ったような「正宗は私のものだよ」宣言ではなく「仲間はずれ」だったはずです。